幼少期から学生時代

5人兄弟の末っ子として生まれた。3男と5歳差で、長女とは11歳差。末弟が故の甘えっ子だったが、ワンパクで、自然豊かな田舎町のいわゆるガキ大将をやっていた。

 

子分を引き連れて、山には基地を作ったり、海では泳いだり釣りをしたり。年下の子供達をまとめて、ソフトボールのチームも作った。その頃から親分肌で、何かあればリーダーシップをとっていた。

 

中学時代は学校の先生になること夢見ていた。数学と化学が得意な理系脳だったが、好きな教科は社会科で、特に歴史。 部活動は最初は卓球部に所属したが、下手だった為、やむなく退部に。それから化学部、美術部、ハンドボール部、体操部など、遊びがてら転々とした。

 

高校は三角から片道30 km、1時間以上をかけて宇土高校に汽車で通学をしていたので帰宅部に。食べ物や衣類に不自由したことはなかったが、父親が鉄工所勤め、母親が八百屋を営ん

                          でおり生活に余裕が無く、大学進学及び学校の先生の夢は諦めざるを得なかった。

保育園時代
保育園時代
小学生時代
小学生時代

結婚

妻の眞知子さんは私より何十倍も人から好かれ、人間的に愛される人。私と違い、広く交友関係を持つタイプ。国立療養所で看護師として働く国家公務員だったので、結婚当初から眞知子さんの方がたくさん稼いでいた。

 

私の給料は飲み代に消えていったので、生活は眞知子さんが支えてくれていた。 とにかく真面目で、石橋を叩いて渡るか、渡らないかを考えるタイプ。

 

しかし、ここぞという時には思い切りの良い人で、介護事業を始めるときには、退職金からかなりの額を出資してくれた、頼りになる人。

 

 田端家は眞知子さんで保っているようなもの。

大恩ある両親

毎月欠かさずに行っていることが、三角にある両親のお墓参り。必ず両親のどちらかの月命日に、眞知子さんと、時には孫を連れて。その帰りに本家に寄って仏さん参りをすることも。両親の写真には、毎朝手を合わせている。

 

その理由として大きいのは、特に母親に対する報恩の気持ち。母親の愛情に包まれて育ってきたし、役場に入る為の道筋も付けてくれた。母親は肝っ玉母さんで、気に入らない事がある時は喧嘩もいとわない。その気性を継いでいるという自覚もある。ここまで来られたのは、神様、仏様、ご先祖様のおかげ。

私の夢

今一番の楽しみであり夢は、孫の代まで事業を残し、事業を託すこと。

 

自分が財を成すことよりも、健全な経営が続いていき、孫のうちの一人が医者になり、医療と介護の連携ができて、

介護事業が安定していくことを望んでいる。

そして、孫の代ではまた新しい発想で事業を展開していってもらえたら何より。