地域振興~B&G財団編~

小学5年生の時に片目を失明し、指を欠損する大きな怪我をした。将来を案じた母親から、地元の役場に入るように勧められ、道筋もつけてくれた。結果的には役場に入ってよかったと思う。

 

得意分野は地域振興と企画立案。32歳の時には、日本船舶振興会の外郭団体であるB&G(ブルーシー・アンド・グリーン)財団が、海洋性スポーツ振興の為に、体育館やプール、武道館、ヨット等の艇庫を作る事業に、巨額の出資をされることになり、その誘致を担当した。財政の厳しかった三角町にとって、無料で施設を造ってもらえることがありがたかった。

 

 

34歳の時にはセンター育成士という資格取得の為、沖縄で3ヶ月の研修を受けた。プールやヨット、健康などについての指導者になるための厳しい訓練で、最終的には4級小型船舶操縦士や日本赤十字社の水難救助の資格まで取得し、社会教育、社会体育の指導者として、沖縄からの帰路についた。その頃には、体育館やボートを収納する艇庫、プールなどが出来上がっており、学んだ事を存分に活かして指導業務にあたった。

 

当時はバブル絶頂期で資金が豊富だった為、B&G財団が施設建設やイベント実施、各種競技会の協賛などに積極的に補助金を出してくれていた。青少年の自立を促す「少年少女船の旅」事業では、親元を離れた数百名の小中学生たちと一週間、船と飛行機でグアム・サイパンを旅したことも。その他にも、消防団や市民の綱引き大会、高齢者はつらつ健康教室、小学生の水泳大会など、B&G財団を冠スポンサーとしたB&G杯の海洋性スポーツ大会を色々と企画した。一番の思い出は、地域の小学生がOPヨットで何度も全国大会優勝をしたこと。

 

 

 

地域振興~0から1を創り出す~

歴史に残るような仕事として、後に世界遺産になった三角西港の開発担当がある。

また三角駅前開発として「海のピラミッド」の設立も担当し、TVでも紹介された。その他にも三角戸馳島の温暖な気候を利用した、花卉栽培(胡蝶蘭・オンシジューム・パフェオ)を始めた。21人の若者が将来の花づくりの為に集まり「五蘭塾」を結成し、その支援と広報活動の為に「戸馳花の学校」を建設した。

 

そして、 近隣5町が合併し宇城市が誕生することになる合併協議会では、母親譲りの負けん気、押しの強さ、決して引かず譲らない性格を買われ、中心地から一番遠く、不利な条件での合併に呑み込まれかねない三角町の代表として、合併協議に臨んだ。

 

公務員生活38年6ヶ月。幾度となく異動を言い渡された。その数、15~16回。それには実は理由がある。  それは、在職中に誕生した首長の政治姿勢や予算、人事権の使い方に疑問を感じ、公務員でありながら、選挙の際には堂々と反対運動を行っていたからだ。再選の度に左遷だった。それでも、様々な結果を作ることが出来たのは、上司に恵まれたことと、可愛がってくれた町議会議員や区長さん方などの存在が大きい。0から1を創り出す重要な仕事の際は首長を説得して、立ち上げメンバーに任命してくれた。