早期退職と介護事業のスタート

昔は各地域で祭が盛んだった。戸馳神社祭、郡浦神社祭、大岳神社祭、金比羅祭など。そういった祭には、お互いに地域総出で押しかけて行っていた。住民はもちろん、議員さん、役員の人たちなど、普段の立場など関係無く親しみ合い、とても密度の濃い付き合いがあった。

 

女性陣がご馳走を作り、お酒一升瓶を2本手土産で持って行ったら、3本分飲んで帰ってくるといったような、非常に盛り上がる宴会が、そこかしこで繰り広げられていた。 みんな、祭を通して地元に強い愛着を持っていた。そういった想いから、常々三角に貢献したいと考えていた。

 

ある時、役場時代に知り合った元宇土市議会議員が経営する高齢者福祉事業に興味を持った。手掛けておられた事業に、有料老人ホーム、グループホーム、デイサービス、保育園があった。三角には保育園はあったものの、有料老人ホームや、グループホームはなかった。グループホームは入居者数と同じ人数の職員を雇用する必要があり、雇用創出の手助けにもなるので、三角で介護施設を運営したいという気持ちがどんどん大きくなっていった。

 

ついには、市長、市議会議員をはじめ、職場の先輩後輩同僚、果ては家族までもが反対する中で、周囲の言うことを聞かずに56歳で早期退職し介護事業を立ち上げることにした。

曲野デイサービスを開業、有料老人ホームまつばせ芳寿苑設立へ

曲野デイサービス
曲野デイサービス

本当は愛着のある三角で開業したかったが、折しも松橋町曲野のデイサービス事業者から「経営を譲渡したい」という話があり、平成19年9月30日で仕事を辞め、退職金1千万円を注ぎ込み、平成20年の9月1日から曲野デイサービスを開業した。居抜きの状態だったので、初期費用はそれほどかからなかったが、土地建物の賃借料が30万/月かかることになった。

 

事業を譲渡されるということは、経営がうまくいっていない施設を引き取るということだったので、最初から順風満帆とはいかず、1000万の資金はみるみるうちに80万円まで減った。看護師だった妻の眞知子さんが、よく助けてくれた。

 

ある時、デイサービスの利用者さんからこんなことを言われた。

「社長、私たちは今は元気でデイサービスに来ているけど、何年かするとここに来られない時が来ると思う。なので、終のすみかとして老人ホームを建ててもらえないか」

まつばせ芳寿苑
まつばせ芳寿苑

1年もすると曲野デイサービスの経営は回り始めていたが、自己資金だけで施設を建設する事は難しく、8000万の借入が必要となった。それは新たなチャレンジだった。物事は始める時が一番難しいと痛感した。当時の松橋では、特別養護老人ホーム、老人保健施設、療養型医療施設、グループホームが主流で、あまり有料老人ホームはメジャーではなかった。

 

株式会社で経営できる民間の住宅型有料老人ホームは、認可制ではなく届出制だった為、県への届出が受理さえされれば始められた。ただしその為には、しっかりとした融資の裏付け必要だった。知人から「有料老人ホームを始めるのであれば、熊本銀行に相談するのが良い」と勧められ、松橋支店に行ってみた。初めての面談でいきなり「何人が入居する予定か?」と聞かれた。正直言って、そんなものは実際に施設を造ってみないと分からないと思ったが、銀行からは「最低でも30人は入居者の目処が立っていないと融資ができない」と言われた。

 

実母や親類、デイサービスの利用者さんなど、挙げられるだけの人をリストアップして銀行に持って行った。そして何とか8000万円の融資にこぎつけた。厳しい中でのスタートではあったが、完成した施設の内覧会には24名の定員に対して、200名以上の方がお見えになった。

 

そして平成21年11月1日に住宅型有料老人ホーム「まつばせ芳寿苑」をオープン。オープンの際に娘の寛子が入社。

時の勢い、チャンス、人のめぐり逢い。全てに恵まれたお陰で1年目から黒字だった。運も実力のうちと言うが、本当に運が良かった。 

次々とグループ施設をオープン。現在も新施設開業計画中

芳寿苑オープンの1年半後、23年の4月には寿光庵がオープン。更に同年6月には田原坂がオープン。芳寿苑の土地は長く付き合いのある大海建設さんが見つけて来られた。寿光庵は松橋の地元の人が「買わないか」という風に話を持って来られた。芳寿苑が黒字であったため銀行もすぐに融資を決めてくれた。

 

田原坂は地主さんが建物を建てて、毎月賃貸として借りている。 田原坂も大海建設さんからのお話だった。人とのつながりで事業が広がった。当時はイケイケどんどんで不安はなかった。 しかし次々とやらないといけないことが頭を巡り不眠症になった。夜中に考え出すと眠れなくなる。それは今でも変わらない。 

 

その後は、平成25年4月に保田窪、27年3月に蓮台寺、28年4月に三郎一丁目、令和2年3月には社会福祉法人を立ち上げ、特別養護老人ホーム琴平本町を設立。更に令和4年4月には、新たな施設をオープン予定。

施設の運営方針

何が自分を動かしたのかを振り返ると、それは後悔しないための「覚悟」だったと思う。とにかく努力をした。だが今は覚悟から感動と満足へ変わった。感動を覚えるようなやり方・戦略を積んでいけばよいと思うようになった。

 

「サービスは高く、負担は軽く」

「より安く・もっと安く・最後まで安く」

 

私は富裕層を対象としない。貧困層とは言わないまでも、本来は行政がやるべきような範囲の、あまり経済的に豊かではない人たちのお世話をし、生活を支えていく、その役割を担っていると思っている。

 

「上手な介護より優しい介護」 

 

「上手な介護」とは効率を求める介護。一方で「優しい介護」とは、その人に心から寄り添って求められるニーズに応えていくという違いがある。これは現場の職員さんから出てきた言葉。

 

「0・5・10運動」(離職率0%、空床率5%以下、経常利益率10%以上)

他のどの施設も取り組んでいない運動。この数字指標が達成されるということは、即ち職員さんからも入居者さんからも必要とされ、50年続く企業になるということ。

 

 


黒字経営を続けられたのは、多くの応援のおかげ

私の誇りはどの事業においても1年目から黒字であるということ。その秘訣は、「経営は繊細かつ大胆かつ打算的に物事を判断する」という信条。オープンまでは緻密に計算する。収入、運営経費、人件費などの緻密な作戦を練る。座右の銘は「迷ったら進め、決めたら後ろを見るな、覚悟を決めろ、死ぬ覚悟で努力をする」

 

施設のオープン前には緻密な計算で地域広報誌、新聞広告など広告費に数百万円をかけ、徹底した広報活動をする。ただ、やはり周りからの応援がないとやっていけない。まずは金融機関からの信用。 事業を始めた時は不景気だったが、金融機関は医療と福祉には融資をするというスタンスで、時の流れに恵まれていた。

 

次に、宇土高校の同級生。グループ会社の鎌賀社長、星野経理部長、保険の嶋田さん、特別養護老人ホーム理事の前田さん、熊本市会議員の原口先生、薬局の村田氏など。私は交友関係をどんどん広げるタイプではなく、狭い範囲だが深く付き合っていくタイプ。人と人のつながり、ネットワークが大切。

職員さんに伝えたいこと

ここまで来られたのは、ひとえに職員さんのお陰。職員さんの現場があってこその芳寿会。施設長を中心に、「0・5・10」を合言葉にしてくれていて、入居者さんの小さな異変に早く気づけるからこそ、目指せる目標。

メッセージは、一年間の努力目標にも掲げた「社会的見識を広め、自己研鑽・自己変革・自己啓発に努めよう」夢や目標を持って挑戦していこうと言いたい。ただ介護だけをしていても人生は豊かではない。社会的見識を広げ旅行に行ったり、色々と趣味などを広げたりして欲しい。自社で介護の仕事を通して、新しい車を買ったり、家を建てたりしている職員さんが増えてきている。子供を育てて学費を稼ぐ必要がある職員さんも多くなっている。しかし、子育てはいつか終わる。

 

自分の夢や目標を持って挑戦していく、そんな人生にしてほしいと思っている。 

売上10億円50年続く企業づくりを宣言

10周年の記念事業をした時に、親戚、友人、役場時代の先輩、後輩、同僚をお招きして、売上10億円50年続く企業づくりを宣言した。それに職員一同向かって行こうと方向性を示した。幹部会議ではキャッシュフロー経営と企業会計における経営を分けて教育をしている。税金も払わないといけない。納税は社会貢献である。

 

社長の仕事は目標を示すこと。その象徴が離職率0%、空床率5%以下、経常利益率10%以上の「0・5・10運動」。それが実現できれば必ず50年続く企業になる。

 

今後もご入居者の皆さん、職員さんと共に、企業理念である、

・愛情 ・感謝 ・謙虚 ・信頼

の4つの心を大切に事業を営んでいこうと思っている。